カテゴリー: 闘病記&雑記

  • 就労移行支援事業所も卒業シーズン

    就労移行支援事業所も卒業シーズン

    春は出会いと別れの季節

    就労移行支援事業所も卒業シーズンです。
    一生懸命就活を頑張った方が無事に競争を潜り抜け、卒業を勝ち取っていきます。

    Excelが全然できなかった方が、毎日家で勉強して、難易度の高い関数をいくつも身に着けたり

    企業に面接で聞かれても完璧に答えられるように、症状理解について研究を重ねていたり

    皆さん、すごく努力されています。

    以前、PC苦手だよ…って言ってた方が横で関数の問題をすらすら解いているのを見ると、すっごく焦ります…。
    一生懸命勉強してきたんだなあって。
    私も頑張らないと!

    就職活動の実際

    私は社会人経験がある分、なんとかなるかな、と斜に構えていたのですが、全然書類審査で落とされていて、とんでもなかったです。

    もっと謙虚に学ばないと、と今頃になって気づきました。

    選ばれている方は皆、努力していたり、スキルの高い方です。障害があるから、なんて甘えている人は誰もいません。大企業からの求人ばかりで、そこには数回の面接と適性検査が待っていることがほとんどです。

    求職者は多面的に能力を見られてしまいます。一般的な志望理由などだけでなく、障害についての様々な質問にも答えなくてはなりません。そこで、どれだけ自分が障害理解を果たしているかも見られます。

    面談は緊張します。面接官は皆優しいけれど、でも例えば「英語ができない」と一言いうと途端に相手の勢いが削がれてしまい、面接時間は短く終わり、結果もやっぱり駄目だった、なんてこともありました。自分の能力の足りなさ加減に泣きたくなります。でも、事実、英語は苦手なのだから仕方ありません。見栄を張ったところでミスマッチじゃダメですよね。

    まとめ

    こんな具合で、私の就活は厳しいです。でも、自分磨きは怠らないようにしないと永遠に就職できない。だって50代ですから!

    本当に厳しい挑戦だと自分でも思います。でも頑張りますね。

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  • 統合失調症が発症した経緯

    統合失調症が発症した経緯

    発症時の状況をお伝えします

    プロローグ

    私は発症してから医療に繋がるまで3~4年くらいかかりました。ほとんどの人に気づかれませんでした。たまに気づかれてもその人のもとから姿を消していました。

    医療と繋がらなかった私は今振り返っても危険な存在だったと思います。

    正直言って、そんな過去を振り返るのは気が重いです。無理せず書ける範囲で書こうと思います。

    ある日突然、じわじわと

    それは突然のことでした。

    ママチャリで自転車通勤をしていたら、全身ブランド物でキメている男性が私の前をおしゃれな自転車で走っていました。その時、確信したのです。「私をつけている」と。

    不思議ですよね。でも病気でない人も勘が働いてピンとくることってあると思うんです。まさにそれと同じことが私の中で起きました。

    私は想像を巡らせます。あんなお金のかかった格好をして私をつけているなんて、資金の潤沢な集団が私をつけている?なんのために?誤解されている?

    ・・・全く支離滅裂な思考ですが、病気なので、当時は矛盾を全く感じませんでした。

    「私はつけられている」これは確信でした。

    すると私は町中にいても、いろいろな人につけられていると感じるようになりました。洗練されたスレンダー美女にとか笑。そんなわけないのに。でも当時は、仕事で用事を済ませているわずかな時間でもつけられているように感じたのです。

    PCが乗っ取られていると感じたこともありました。某銀行のアクセスがどうしてもスムーズにできなかったのです。PCのプロに遠隔操作でPC内部をチェックしてもらっては異常なしと言われ、でも遠隔操作でPCが自由に動かされる様を見て、余計「実は乗っ取られている、この人は見破れていないだけだ」と確信を深める始末でした。

    私はだんだん仕事に支障をきたすようになりました。でも基本一人で仕事をしていたので、会社の誰も私の異常に気付きませんでした。

    ただ、私自身は苦しくなっていきました。

    自己紹介の記事にも書きましたが、車や自転車や通行人が集団で私の自転車の進路を塞ごうとしてきて、私は進むだけでも精いっぱいだと思い、わざわざ遠回りして職場に向かっていたり、横断歩道を渡っていたら、息子のニックネームをすれ違いざま呼ばれたりとか、ホラーじみたことが日常になっていたので、もう通勤は限界だ、と思うようになっていました。

    でも、これらは幻聴や妄想だ、という発想には全く至りませんでした。私は付け狙われている、としか思えませんでした。そこがこの病気の怖いところです。

    結局、私は会社を退職せざるを得ませんでした。

    まとめ

    妄想や幻聴について、書いてみました。実際はもっと酷いこともあったのですが、今日はこの辺で。

    私は病気の症状が苦しくて、社会ではもう生きてゆけないと感じました。自分を追いかける組織の正体もわからないし、なんでこんなことになっているかと思いました。この時、もし医療と繋がっていたらと切実に思います。

    私は病識が全くなくて、医療と繋がれませんでした。でも夫には「あの人はおかしい」「関わらない方がいい」とか妄想全開でしゃべっていました。でも夫が自発的に私を病院に連れて行ったのは2回だけ、結局4年ほど放置されて、最後は医療保護入院になりました。

    「なんで?」と聞くと「嫌がっていたから」。よくよく聞いてみると、夫には精神医療は敷居が高すぎて、どうしたらいいかわからなかったようです。

    でも、就労移行支援事業所にいる同病の方と話をしてみると、だいたい半年くらいで医療と繋がっている様子。私は特殊だと言えると思います。

    病気を長引かせていいことなんて、何一つありません。危険です。言動に危うさのある人が周囲にいたら、関係性が薄かったとしても何とか医療と繋がるようにしてほしいと思います。

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  • 自己紹介

    自己紹介

    発症

    ある日。

    自転車で通勤していたのですが、何台もの自転車に追いかけられたり、数台の自転車や車が私の通り道を塞いでくるので、いつもカーチェイスみたいで、私は遠回りして自転車から逃れながら通勤するといった具合でした。

    また、大きな町の交差点の信号が青になって歩いていたら、すれ違いざまに「〇〇」と子供のあだ名を呼ばれて、なんでうちの子のあだ名を知っているのか、情報がどこから漏れているのか、うちの子はまだ小さいのに…と怖い思いをしました。

    その後、家の電話が盗聴されていると思い、公衆電話で電話するようになりました。

    他にも言い出すときりがないのですが、私は典型的な妄想を抱えた人間で、しかもその妄想を夫以外の誰にも知られないようにしていたので発見が大幅に遅れました。(訳あって夫には妄想丸出しで話していても放置されていました…。怖いですね)

    医療につながるのがすごく遅かったです。その間、私は自殺未遂したり、友達を失ったりと散々でした。

    それでも本人は病気だとは思わなかったです。私は以前から勘が鋭くて、その鋭さを仕事に生かし、よく成功させていました。(でも病気になってからはピンとくるものがあると、「きっとそれは妄想」と打ち消すようになりました(笑)自分を信じられなくなるのは悲しいものです)

    妄想は些細なことから誇大妄想へと広がっていきました。なのに病気ゆえ、本人の中では論理的に全く破綻していないのですから怖いものです。

    私は医療保護入院となりました。

    でも病識がなかったのと、入院した時に拘束ベルトでぐるぐる巻きにされておむつをはかされて半日放置されたために、これのどこが医療なのかと反発し、看護師さんに隠れて薬を飲んだふりしては吐き捨てていました。

    すると半年後、家で問題を起こして、今度は民間の救急車で無理やり別の病院に運ばれてまた医療保護入院となりました。

    入った病院はとても厳しいところで、患者も症状が重い人ばかり。前回の病院は入院後3週間くらいで外出OKだったのが、この時は保護室を出た後も全然庭にも出られず、ずっと閉鎖病棟の中で閉じ込められて過ごしていました。

    どんな妄想を持っていたか、病院で全くと言っていいほど話さなかったのに、3か月半も入院となりました。この時は日常に戻れない焦りが酷くて、精神的に非常にきつかったです。でも妄想は服薬が功を奏してぴたりと止まりました。

    私には薬の効果は絶大でした。薬が合わなかったり、ものすごい量を飲まされて再調整に苦しんでいる方もいるのに、私はラッキーだったと思います。予後が良かったです。

    現在

    今は妄想はほとんどありません。ちょっとだけ「なんか言われている?」くらいに思うことがありますが、それも「妄想きたな」とすぐに打ち消せます。

    それでも退院してから数年間は引きこもりになりました。

    妄想を現実のものとして生きている期間が長くて、現実に戻ってきた時に戸惑ってしまったからです。

    私はまだ、真の現実を生きる準備ができませんでした。子供の保護者会なども欠席しました。三者面談に行った時などは私なんかが行っていいのだろうか、という思いに駆られました。自分に自信がなかっただけでなく、自分にスティグマを貼っていました。私みたいなものが社会生活を送っていいんだろうかと、卑屈になっていました。先生とは笑顔で会話し、何の問題もなく終わったというのに。

    就労移行支援事業所

    今私は、病院のデイケアを経て、就労移行支援事業所に通っています。そこで、自分を大切に考えてもいいんだ、卑屈になることもない、堂々と自分らしく生きていいんだと、職員さんや通っている利用者さんから学びました。

    後遺症の程度は様々ですが、皆さん一生懸命に日々を過ごしています。個人的には優しくて穏やかな方が多い印象です。疲れやすい方が多いようですが(私もその一人です)でも、こまめに休息を取ることで症状の発現を抑えているようでした。

    べてるの家では、症状がある自分も含めてありのままの自分だと、症状ごとまるっと自分を受け止めていたように個人的には感じました。症状を持ちながらも客観的に自分を見つめることの大切さ。べてるの家にはこれが自分なんだと生きる方々と、それを受け止める周囲の人々の素晴らしさがあります。

    怖い病気なので、伝えることには慎重であらねばならないと思いつつ、薬を飲むことの大切さと、みんな病気と折り合いをつけながら今日1日を「ぼちぼち」と生きている、その命の輝きは伝えたいです。

    私たちは病気に翻弄されている。ともすると弱い。生きていくことは困難だと思う。でも、自分らしく生きたいという思いがある。病気の症状も重さも十人十色だし、回復は紆余曲折を辿るけど、でも一歩一歩進もうと目指すことの大切さを信じている。

    何が起こるかわからないのが私たちの生きている世界です。何が起こるかわからないというのは良くないことが起きる可能性だけでなく良いことだって同じように起こる可能性があるという事

    大野裕

    希望を持っていきたいですね。

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